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第2話 恩返しの男

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-25 21:05:02

翌朝、雪乃は妹の簪を握ったまま目を覚ました。

障子の向こうから、遊女たちの話し声が聞こえる。

昨夜、花霞楼に現れた黒羽朔夜。

あの男の金色の瞳が、頭から離れなかった。

「……小雪は、無事なのよね」

雪乃は簪に問いかけた。

昨夜、朔夜は妹が生きていると告げた。

けれど、それ以上のことは何も話さなかった。

小雪は今、どこで暮らしているのか。

どうして、姉が贈った簪を朔夜が持っていたのか。

それに、あの奇妙な言葉。

「おまえの妹は、もう人間の世にはいない」

あれは、いったいどういう意味だったのだろう。

雪乃は深く息を吐いた。

小雪が暮らす町へは、毎月、仕送りをしていた。

家族の借金を背負ったあの日、雪乃は妹を守るため、花霞楼へ入った。

本来、売られるはずだったのは小雪だった。

まだ幼かった妹を、あのような場所へ行かせるわけにはいかなかった。

だから、雪乃が代わった。

男は嫌いだった。

それでも、妹が衣食住に困ることなく暮らせるのなら、それでよかった。

小雪から届く手紙には、いつも同じ言葉が書かれていた。

『お姉ちゃん、ありがとう』

その文字を見るたび、雪乃は翌日も働こうと思えた。

しかし、朔夜は知っているようだった。

雪乃の知らない、小雪の何かを。

「……今夜、ちゃんと聞かなきゃ」

簪を懐にしまい、雪乃は立ち上がった。

いつまでも、わけの分からない男に振り回されている場合ではなかった。

昼を過ぎた頃、女将が雪乃の部屋を訪れた。

「雪乃。黒羽さまがお見えだよ」

「……もう?」

「おまえに渡したいものがあるそうだ」

雪乃は眉をひそめた。

昨夜は迎えに来ると言っていたくせに、まだ昼間ではないか。

「ずいぶんと気の早いお方ですね」

「口の利き方に気をつけな」

「はいはい」

「雪乃」

「……かしこまりました」

雪乃はため息をつき、髪を整えた。

昨夜のように取り乱すつもりはない。

相手がどれほど美しい男でも、花霞楼では自分のほうが場数を踏んでいる。

いつもどおりに微笑み、話を聞き出せばいい。

そう思っていた。

座敷の襖を開けるまでは。

「お待たせいたしました。わらわに、ご用でございましょうか」

朔夜は昨日と同じ場所に座っていた。

白銀の髪。

黒い羽織。

そして、相変わらず何を考えているのか分からない顔。

雪乃を見ると、短く答えた。

「ああ」

「本日は、どのようなお話を?」

「座れ」

「……わらわ、立ったままでも」

「長くなる」

雪乃は口元だけで微笑んだ。

まったく、愛想というものがない。

「では、お言葉に甘えまして」

膝をつくと、朔夜は一通の手紙を差し出した。

「読め」

「……これは?」

「小雪からだ」

雪乃は手紙を奪うように受け取った。

見慣れた筆跡。

小雪の字だった。

『お姉ちゃんへ』

たったそれだけで、胸がいっぱいになる。

雪乃は急いで続きを読んだ。

『突然こんな手紙を送ってごめんなさい。あたしは元気です。黒羽さまに助けてもらいました』

「……助けて?」

雪乃の指が止まった。

続きを読む。

『お姉ちゃんが送ってくれたお金、全部は受け取れていなかったみたい。あたしが知らないうちに、鷹司さまのところで止められていたの』

「……鷹司?」

雪乃の声が低くなった。

鷹司蓮。

この辺りを治める代官であり、雪乃たちの家に借金を負わせた男。

美しい顔をしているくせに、その目には人を品定めするような冷たさがあった。

小雪を差し出せと迫ったのも、あの男だった。

雪乃は唇を噛み、手紙に目を戻した。

『この前、鷹司さまが家に来たの。お姉ちゃんのお金だけじゃ足りないって。今度はあたしも連れていくって言われて……』

雪乃の手が震えた。

「……ふざけないで」

毎月、あれだけの金を送っていた。

借金の返済分も、妹の生活費も。

小雪が何不自由なく暮らせるよう、できる限りのことをしてきた。

それなのに。

「……あの男」

雪乃は手紙を握りしめた。

「まだ、小雪を……!」

「雪乃」

朔夜の声が、静かに響いた。

「続きを読め」

雪乃は顔を上げた。

朔夜は怒っているようにも、慌てているようにも見えない。

ただ、真っすぐ雪乃を見ていた。

「……分かったわよ」

雪乃は視線を落とした。

『でも、もう大丈夫。黒羽さまが来てくれたから。鷹司さまは何もできずに帰っていったよ』

『取られていたお金も、取り戻してくれたの。これからは、ちゃんとあたしのところに届くって』

『黒羽さまに、お姉ちゃんのことを話したの。ずっとあたしを守ってくれた、大好きなお姉ちゃんのこと』

『そしたら、黒羽さまが言ってくれたんだ』

『おまえは、これまでどおり暮らしていろ。姉は俺が助ける、って』

そこまで読んで、雪乃は手紙を下ろした。

「……あなたが?」

「ああ」

「小雪を、助けてくれたの?」

「そうだ」

「お金まで取り戻して?」

「おまえが稼いだものだ。返してもらった」

あまりに簡単に言うものだから、雪乃は言葉を失った。

鷹司蓮が、どれほど厄介な男なのか。

逆らえば、花霞楼にまで圧力をかけられる。

だから、雪乃は必死に働いてきた。

小雪だけは、あの男の手の届かない場所へ逃がしたかった。

なのに、目の前の男は。

「……どうやって?」

「話をした」

「話だけで、あの男が引き下がるわけないでしょう」

「引き下がった」

「だから、どうやって!」

「……少し、脅した」

雪乃は目を丸くした。

「脅した!?」

「人聞きが悪いな」

「自分で言ったんでしょうが!」

朔夜は平然と茶を飲んだ。

雪乃は額を押さえた。

この男は、何なのだ。

あの鷹司を相手に、脅したなどと。

「……あなた、何者なの?」

「黒羽朔夜だ」

「名前は聞いたわよ!」

「そうか」

「そうか、じゃない!」

雪乃は思わず身を乗り出した。

そのとき、朔夜がわずかに目を細めた。

「……ようやく、いつもの顔になったな」

「え?」

「昨夜から、無理に笑っていた」

雪乃の口が止まった。

「……何よ、それ」

「おまえは、もっとよく怒る」

「初対面のあなたに、何が分かるの」

「分かる」

言い切った朔夜を、雪乃は見つめた。

金色の瞳。

見覚えなどないはずなのに。

その目を見ていると、遠い昔に置いてきた何かを思い出しそうになる。

「……どこかで会った?」

朔夜は答えなかった。

代わりに、懐から別のものを取り出した。

厚みのある書付。

女将が、雪乃の身請け金として提示していた額が記されている。

雪乃の顔から、笑みが消えた。

「……何、それ」

「おまえの身請けについて、女将と話をした」

「は?」

「金額は確認した」

「ちょっと待って」

「今夜中に支払う」

「待ちなさいってば!」

雪乃は畳を叩いた。

「誰が身請けしてくれって頼んだのよ!」

「頼まれていない」

「分かってるなら、どうして!」

「迎えに来たと言っただろう」

朔夜は、まったく悪びれなかった。

雪乃は大きく息を吸った。

確かに、小雪を助けてくれたことには感謝している。

奪われていた金を取り戻してくれたことも。

けれど。

だからといって、自分の人生まで勝手に決められていいわけではない。

「……あたしを買うつもり?」

雪乃の声が、冷たくなった。

朔夜は茶碗を置いた。

「違う」

「何が違うの? 身請けって、そういうことでしょう」

「花霞楼から出すための金だ」

「そのあと、あたしをどうするの」

「おまえが決めろ」

雪乃は眉をひそめた。

「……は?」

「小雪のところへ帰ってもいい。ほかの町で暮らしてもいい」

「だったら、どうして身請けなんて」

「おまえに、もう無理をさせたくない」

静かな声だった。

甘い言葉でも、芝居がかった口説き文句でもない。

ただ、事実を告げるような口調。

雪乃は、返す言葉を見つけられなかった。

朔夜は続けた。

「だが、ひとつ頼みがある」

「……何よ」

「俺の嫁になれ」

沈黙。

遠くで、三味線の音が鳴った。

雪乃は、ゆっくり瞬きをした。

一度。

二度。

そして。

「…………はああああ!?」

座敷の外で、何かが落ちる音がした。

おそらく、女将が茶器でも取り落としたのだろう。

そんなことは、どうでもよかった。

「何でそうなるのよ!」

「嫁が必要だからだ」

「だからって、どうしてあたしなの!」

朔夜は雪乃を見た。

まっすぐに。

何の迷いもなく。

「おまえがいい」

「…………っ!」

雪乃は、一瞬だけ言葉に詰まった。

その顔が熱くなりそうで、慌てて扇子を広げる。

違う。

これは、口説かれて照れているわけではない。

あまりに意味不明なことを言われて、頭に血が上っただけだ。

「……お断りするわ」

「そうか」

「そうかって、あっさりしすぎじゃない!?」

「無理強いはしない」

朔夜は立ち上がった。

「ただし、身請けの話は進める」

「それも勝手に決めないで!」

「では、おまえが女将と話せ」

「……え?」

「ここを出たいのなら、俺が金を出す。出たくないのなら、出さない」

雪乃は黙った。

朔夜は、彼女の返事を待っていた。

売られたときも。

花魁になったときも。

自分には、選べる道などなかった。

誰かが決めたことを、受け入れるしかなかった。

なのに、この男は。

自分で決めろと言う。

雪乃は、膝の上で手を握った。

「……考えさせて」

「ああ」

「小雪にも会いたい」

「会わせる」

「それから、あなたのことも、ちゃんと教えて」

朔夜は頷いた。

「分かった」

「……本当に?」

「嘘はつかん」

雪乃は、疑わしげに男を見た。

その顔を見て、朔夜の口元がほんの少し動いた。

笑ったのだろうか。

雪乃が確かめようとしたとき、朔夜は襖へ向かった。

「明日、また来る」

「……ねえ、朔夜」

男が足を止めた。

「どうして、そこまでしてくれるの?」

朔夜は振り返らない。

しばらくの沈黙のあと、低い声が返った。

「借りがある」

「……借り?」

「昔、おまえに命を拾われた」

雪乃は首を傾げた。

そんな覚えはなかった。

黒羽朔夜という名の男など、知らない。

「人違いじゃない?」

「違わない」

「だって、あたし……」

言いかけて、雪乃は口を閉じた。

脳裏に、古い記憶が浮かんだ。

まだ、家族で暮らしていた頃。

雪の降る山道。

木の根元に置かれていた、鉄の罠。

そこに、一匹の白い狐がかかっていた。

幼い雪乃は、泣きながら罠を外した。

傷ついた狐を、自分の羽織で包んで。

「……まさか」

雪乃が顔を上げる。

朔夜は、すでに襖の向こうへ消えていた。

残された雪乃の耳に、遠い日の自分の声が蘇る。

『もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ』

雪の中で。

小さな白狐が、金色の瞳で自分を見つめていた。

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